在臺灣大學文學院外文系畢業後,我到日本的東北大學亞洲史研究所留學,畢業後就讀於九州齒科大學,之後通過日本牙科醫師國家考試成為牙醫,在千葉縣佐倉市開了間牙科診所直到現在。

我從小就很討厭念書,是個淘氣的孩子。也許因為這樣,國中畢業後,母親希望我能為了家中生計繼承家裡的中華料理店,別繼續升學。父親在我4歲的時候過世了,自那之後是母親獨自一人扛起這家店苦心經營。母親沒有念小學並不識字,更何況當時身在韓國卻不會講韓語,所以經營店面非常辛苦。但是,明明身邊所有的朋友都繼續升學只有我去工作,這讓我非常難過和不情願,哭著向母親抗議,總算得到升學的許可。由於當時的韓國華僑學校還須繳納學生的學費,一整年的學費一般分成4期繳納,但是因為我晚了一個月入學,必須預繳2期的學費,母親非常辛苦地為我籌錢。對我來說,升學並不是為了念書,而是為了能和朋友一起玩,因此可想而知成績並不理想。高中畢業的時候,母親再次表示希望我別去念大學,這次一定要繼承家裡的店面,母親說因為我有3位姐姐,而我身為家中唯一一個兒子,所以身為男性的我必須繼承自家店面。但是考慮到當時韓國的華僑社會的情況,我認為若不繼續升學就沒有未來,於是說服母親讓我去念臺灣的僑生大學先修班。

一年後進入臺灣大學是我人生中一個重要的里程碑。臺大是我憧憬的學校,如果要升學腦中只有臺灣大學,下定決心無論如何都要到臺大念書。雖然值得慶幸的是最終我如願進入臺大,但心裡卻不是很痛快,覺得十分苦悶,因為我的第一志願是外文系,但卻因些微分數之差被分到歷史系。我自小的夢想就是想成為政治家或外交官,為臺灣貢獻自己的力量。因此無論如何都想念外文系,我跑到教務處卻無法得到轉系許可,不放棄地去談了好幾次,當時的負責人外文系系主任建議我若能先得到歷史系系主任的同意,轉系的事應該就沒有問題了,當時的系主任是顏教授,向他說明我的狀況後,得到他的諒解允許我轉系,而能在外文系渡過我學生生活。

但快樂的時光是短暫的,臺大外文系的英文水平要求之高,我讀得非常辛苦。大一必修英語選讀的成績十分糟糕,負責教這科的翁廷樞老師每次小考的時候就把我叫過去,說:「你都坐在最前面認真學習,為甚麼還考的這麼差?」那時候,老師才知道我是來自韓國的僑生,能理解我英語的學習能力比臺灣學生還差。當期末考結束後,我希望能不要留級到老師家拜託的時候,原先認為十分理解我的老師卻在喝得酩酊大醉之下,痛罵我一頓要我離開,我在返回宿舍的路上都啜泣不止,因為已經無法再讓在韓國憑女性一己之力撫養我長大的母親,浪費在這之上更多的時間和金錢了。隔天,我鬱悶地待在宿舍,沒想到翁老師到宿舍來向我說:「昨天的事,我想向你道歉。」並請我吃午餐。以此為契機,我和翁老師的關係更緊密了,4年間不僅有師生關係,對待我也像家人一樣,一起喝酒、談天或去夜市。

畢業考一周前,得知母親過世的消息,猶豫是否該馬上回到韓國舉行喪禮,但去了就必定留級。翁老師強烈建議我不要先回去,等到畢業考結束之後再回韓國辦喪禮會比較好,還對我說畢業考之後的事就交給他處理,於是我考完試後不等結果出來馬上返回韓國處理母親喪事,也沒能參加畢業典禮。至今,雖然翁老師已經過世了好久,每當回想起這些事,只不過是一個成績很差的學生的我卻受了老師那麼多恩情,心中充滿對他的感謝。

大學4年間交到了最親密的朋友,到現在彼此都還保持聯絡。我還記得在妻子(日本人)第一次來臺灣的時候介紹給他與他的家人的事,妻子也說當時十分開心。他的名字是劉純熙,他坐著輪椅,手也不能移動自如,但他是所有人之中頭腦最好最聰明的人。幸虧有他我才能從外文系畢業,因為他在考試前讀了大量的英文資料並詳細地為我解說重點,多虧這樣我總算才能通過考試。

大學4年間,我完全沒有像普通學生一樣參加社團活動或遊玩,因為就如同前面提到的,經濟方面沒有餘裕讓我可以這麼做,讀書方面也是勉勉強強才不至於被當。回過頭來看,若問我學了什麼,還真想不出個所以然,真是非常抱歉,但這4年的勤奮學習,為我之後的人生奠定下基礎是不容置疑的。

大學畢業後因緣際會在日本認識了妻子,以結婚為契機,以研究生的身分到東北大學東洋史研究室留學,但因為妻子在千葉市的小學任教,我開始了一個人在仙台的生活。某個暑假回到千葉,參加附近千葉大學留學生宿舍舉辦的活動時,偶然與從臺灣來的醫學系留學生聊天後,我的人生大大的改變了,出現了以醫學系為目標的選項,那群留學生是理工學系畢業的學生,以醫學院為目標來到日本。那時後,我看到歷史研究所的學長姐們出社會後並不順遂,開始對未來是否能找到工作感到不安,於是與妻子商量,她支持我去挑戰看看。對完全不懂數理的我來說是非常困難的考驗,妻子的家人極反對我這個決定,似乎對她說希望我盡早去工作,但她什麼都沒說,默默地支持著我。準備考試的2年間,我完全都沒有和朋友聯絡,如果第3年沒有通過考試就打算放棄,但終於收到九州大學齒科大學的合格通知,雖然距離通過國家醫師考試還有一段很長的時間,但現在回想起來那也只不過是一瞬間的事而已,多虧這些經歷,現在我的牙醫診所才能順利地得到地方上大家的信任,過著充實的生活。

時常有人跟我說,從文學院畢業的人要進入齒科大學就讀是非常困難的事,我也很清楚他們說得沒錯,但如果沒有在臺大的那4年,我覺得我無法以醫學系為目標讀書,因為在臺大不只學習和吸收知識,也培養了我擁有不輕易放棄努力的態度及了解到人際關係的重要性,這些使我成功考取九州齒科大學,及直到現在都能致力於牙醫診所的經營管理。從去年開始,有緣擔任臺灣大學日本校友會會長,藉此能與學長姐、學弟妹親密地交流,越發讓我感受到身為臺大人是非常幸福的一件事。

今後,仍會為臺大的發展和所有畢業生獻上我的祝福,並盡我微薄之力幫助各位。

梁益正小檔案

1953年出生於韓國仁川市
1973年仁川華僑高中畢業
1974年入學臺灣大學
1978年臺灣大學外文系畢業
1978年進入臺灣大飯店及亞信観光公司工作
1980年留學日本東北大學東洋史研究室
1984年進入九州齒科大學進修
1990年九州齒科大學畢業
取得齒科醫師國家考試合格、齒科醫師執照
2001年獲齒學博士學位

私は、台湾大學文学部外文系卒業後、日本の東北大學東洋史研究室に留学した。その後九州歯科大学に入学し歯科医国家試験、に合格し歯科医となり、千葉県佐倉市に歯科医院を開業し現在にいたっている。

子供の時から勉強が嫌いて、悪戯ばかりでした。そのこともあるが故に、中学校卒業後、母から、生活のために高校に進学しないで家業の中華料理店を継ぐように言われた。父は私が4歳のとき亡くなり、その後、母一人で店を切り盛りしていた。母は小学校も行ってないので読み書きができなかった。まして韓国にいるのに韓国語ができず店の経営が大変だった。しかし、友達全員が進学したのに、私だけが店で働くのはとても悲しくていやだった。母に泣いて抗議し、なんとか進学の許可を得た。当時の韓国華僑学校は、生徒の授業料で維持していたこともあって、1年間の学費を普通は4期に分けて納入していたが、私は一ヶ月遅れで入学するためは、先に2期分の授業料を先払いするのが条件であった。母は苦労してそのお金を工面してくれた。しかし、私にとって、実は進学は、勉強が目的ではなく、友達と遊ぶためであった。だから、成績は推して知るべしである。高校卒業時にも、母から大學に行かず今度こそ店を継ぐようにいわれた。私は一人息子で後は姉たち3人なので、男である自分が家の店を継がなければならないと母が言ったのだ。しかし、当時の韓国の華僑社会の事情を考えると、進学しなければ未来が開かないと私は考え、母を説得した。台湾の僑生大學先修班に行くようになった。

1年後の台湾大学の入学は我が青春時代で最も大事な門出であった。私にとって台湾大学は憧れの学府であった。大学進学するならば台湾大学しか頭にない、なにかなんでも台湾大学へ進学すると心から決め込んだ。

めでたく台湾大学へ入学はしたが、ずっと心が晴れず悶々としていた、何故ならば、私の第一希望は外文系であったが僅か点数不足で歴史系に振り分けられた。子供のころから、将来の夢は政治家や外交官になり、国や台湾の為に自分を捧げることができればと思っていた。

どうしても,外文系で勉強したく、教務課へ足を運んだが、転系を認めてもらえなかった。諦めきれず何度も相談に行ったところ、担当者が、外文系主任に相談してその主任が承諾したら問題無いですとアドバイスしたくれた。当時の系主任は顔教授であった。彼に私の気持ちを伝えたところ、良く理解してくださり転系を許可してくれた。

めでたく外文系で学生生活を送ることができた。だが、喜びも束の間だった。なぜなら、台湾大学の外文系の英語のレベルの高さについていくのが大変だった。1年生の必須科目・英語選読の成績はきわどかった。科目担当の翁廷枢先生は、テストのたびに私を呼んだ。(君は、最前列に座って真面目に勉強しているが、なぜ点数がこんなに悪いのか?)と、聞かれた。その時、先生は初めて私が韓国僑生と知り、台湾の生徒より英語の学力の差があることの理解を示してくれた。だが、学期末試験終了後、先生の家へ、留年になら無いようにお願いしに行った。あんなに理解してくれたと思った先生は、泥酔していて、帰れと罵倒した。私は、すすり泣きながら宿舎へ戻った。韓国で私を女手一つで育てた母にこれ以上お金の負担や時間の無駄は許されなかった。

翌日、気分が晴れないまま寮にいた。そこへ、なんと翁先生が訪ねてきたのだ。(昨日のことをお詫びしたい。)と言ってくれ、お昼ご飯をご馳走してくれた。このことがあって、翁先生と深い繋がりができ、4年間、先生と生徒ということだけではなく、家族のように接してくれた。お酒を飲んで話しを聞いてくれたり一緒に夜市に出かけたりした。

卒業試験の1週間前に母が亡くなったと知らせがあった。すぐに韓国に戻り喪主として葬儀を執り行うかどうか迷った。行けば留年は確実であった。翁先生は、行かないで卒業試験終了後葬儀の為韓国に戻るのがいいと強くアドバイスしてくれた。試験が終わった後は任せなさいと翁先生が言ってくれた。卒業試験を受けて結果も見ず韓国に戻った。卒業式は結局参加できなかった。翁先生はすでに亡くなられたが、今も思い出すたび、ただの出来も悪い一学生の私にしてくれた恩義を感じ感謝の気持ちで胸が一杯になる。

大学の4年間最も親しく過ごした友人がいる。彼とは、今も連絡を取り合っている。妻(日本人)を彼と彼の家族に、妻が初めて台湾に来た時紹介したことを覚えている。妻もとても嬉しかったと言っている。

彼の名前は、劉純煕。車椅子に乗り、手も思うように動かせない。しかし、頭は、ピカ一の秀才であった。その彼のお陰で外文系を卒業できたと言ってもいい。なぜなら、彼は莫大な英語の資料を読んで、試験の前に、私に要点を詳しく解説してくれた。そのおかげで、なんとか合格してきた。

大学4年間は、普通の学生のようなクラブ活動や遊びは全くなかった。それは、前述にあるように、経済的に余裕がなかったからと言える。勉強もやっとやっとの思いでした。振り返ると、何を勉強したかと聞かれると、これというものが思い出せないので,大変申し訳ないです。しかし、4年間の勉学は、その後の私の人生の礎となっていることは間違いないです。

大卒後、縁があって、妻と日本で知り合い、結婚することを機に、東北大学の東洋史研究室に研究生として留学することになった。妻は。千葉市の小学校教師だったので、私は一人仙台で暮らす生活が始まった。夏休みに、近くの千葉大学の留学生寮の祭りに参加した時、たまたま、台湾からの医学部の留学生と話しをした時、人生が大きく変わった。医学や歯学を目指す選択肢があったのだ。その留学生たちも、台湾の大學の理工学部出身で日本に来て医学部を目指したのだった。その頃、歴史研究室の先輩たちを見て、この先私は、就職できるか不安を抱き始めていたところだった。妻に相談したら、チャレンジしたらといってくれた。理数系のことは全くわからない私にとっては大変な試みであった。妻の家族は大反対で、早く就職したらと妻にいうように言っていたらしいが、妻は一言もそんなことは言わずに、応援した。2年間、知り合いとも全く連絡せず、黙々と受検勉強をした。3年目はこれでダメだったらあきらめるつもりになっていた。やっと九州歯科大学から合格通知が届いた。国家試験合格まで遠い道のりと思ったが、今振り返るとあっという間のような気がする。お陰様で、歯科医院は順調で地域の方から信頼され充実した生活が送れている。

文学部卒業から歯科大學への入学はかなり困難なことであったでしょうとよく言われるが、それは事実である。しかし、台湾大學での勉学がなかったら医学・歯科大學受験勉強は無理であったと思う。台湾大學での学びは単に知識だけではなく、諦めず頑張る姿勢や人間関係の大切さを培ってくれた。これが歯学部受験の成功と今の歯科医院の運営に強く働いていると感じている。さらに昨年から、縁があって、日本台湾大學校友会会長をすることになり、様々な同窓の先輩・後輩と親しく交流でき、益々、私が台湾大學を出たことが大変幸せなことだと感じている。

これからも台湾大學の発展と卒業生の皆様のご多幸を願い、微力ながらお手伝いしていく所存です。

柳瀬益正 プロフィール

1953年出生於韓国仁川市
1973年仁川華僑高中卒業
1974年台湾大學入学
1978年台湾大學外文系卒業
1978年工作於台湾大飯店及亜信観光公司
1980年留学日本東北大学東洋史研究室
1984年九州歯科大學入学
1990年九州歯科大學卒業
歯科医師国家試験合格、歯科医師免許取得
2001年学位取得(歯学博士)

圖說:
圖1:1978年畢業照。
圖2:1974年大一同學合影在椰林大道。
圖3:年輕時與家人合照,往事只能回味。
圖4:2015年11月,日本臺大校友會年會。
圖5:與楊泮池校長(中)合影。